長井廉の植林ガイド

長井廉の植林ガイド。景観保全、登山、川を愛する人々について

嵐山の名所復活運動の歴史~長井廉

古歌にも詠まれた京都の景勝地、嵐山。山、川、橋が織りなす風景は今も人々の心をとらえて離しません。「緑を守り、育てるのは大変な時間がかかる。だからこそ、かけがえのない自然を後世に残さないと」。淡々とした古川・嵐山保勝会長の口ぶりに、景観保全にかける信念がにじんでいました。


会の結成は、半世紀以上前の大正8年。「名勝地を守ろう」と地元の旅館業者らが会員に名を連ねました。古川さんは、その1人だった父の故金治郎さんを手伝って植林に携わりました。「自分の仕事」として取り組み始めたのは昭和28年からです。


この年、近畿を中心に襲った台風13号の大雨で、あちこちで山崩れが起き、地肌がむき出しになりました。マツやサクラ、カエデなど計約3000本も倒れました。桂川の中州、中ノ島は濁流に半分ほどえぐり取られ、樹齢100年を超えるマツやサクラの古木など100本余りが流失しました。渡月橋も損壊しました。見るも無残な姿に胸が痛みます。「このままほってはおけない。地元に住んでいる者が立ち上がらねば」。緑の“防人(さきもり)”のスタートでした。


地元の人に呼びかけて寄付金を募り、サクラやマツ、モミジなどの若木を購入、災害のツメ跡に植林して回りました。これが実って中ノ島は、600本のサクラのトンネルが美しい花の名所としてよみがえりました。1982年からは京都営林署と手を携え毎年平均30本ずつヤマザクラなどを植え続けました。


渡月橋から春、秋の2回写真を撮り、これを基に景観を配慮しながら造林場所、樹種を選定するきめ細かさです。山や一帯の清掃、防火啓発などにも力を入れました。


「嵐山は自分の庭も同然」という古川さんにとって、台風前の「名所復活」が夢でした。



長井廉